周りと違うことをする。少し変わってるってそんなに駄目なことなのかな?
大人はよく言う。”人として当然のこと”だとか、“当たり前のこと”だとか。でもその“当然”って、一体誰が決めたんだろう。皆そういう当たり前にできていなきゃいけない基準がある。
挨拶すること。感謝を忘れないこと。時間を守ること。まあ、大事だと思うし、自分もできるだけそうありたいと思う。
でも、それを“当然”って言い切ってしまったら、できなかった人は、人として欠けてるって扱いになってしまう。朝ギリギリまで寝て遅刻したら、もう人間失格なのか?
いや、それはただの遅刻だ。
今の時代、個性を大事にしようみたいな風潮は強い。多様性が大切だって、学校でも会社でも言われる。でもみんな心の奥底では、平均的な人間を基準にしてしまっている。
ちょっと外れた瞬間に「変わってるね」で済むならいいけど、もう少し外れると「非常識」って言葉に変わる。普通から離れすぎると、いつの間にか人はラベルを貼るんだ。
俺がコンビニでスーツ姿のままアイス6本買ったときも、たぶん「こいつ大丈夫か?」って思われてたに違いない。
コンビニでアイス6本を買うのだって、誰かにとっては「変な人」でも、別の誰かから見れば「ちょっとユーモラスな人」かもしれないし、自分にとってはただの「今食べたい・買いたい」気持ちの結果にすぎない。
そう考えると、結局”普通”や”非常識”ってラベルは、見る人の数だけ意味が変わる曖昧なものだよな。
結局、俺たちが普通に縛られてるのは、人と一緒に安心して生きるためなのかもしれない。
平均に寄せていれば、摩擦が少なくて済むから。でもその代わりに、心の中の自分らしさみたいなものはどこかで削れてしまう。
じゃあ、“普通”と“個性”って、どっちを選ぶべきなんだろう。それとも、どちらも中途半端に抱えたまま揺れているのが、俺たちの生き方なのかもしれない。
まあ、答えなんて出ないけど。
ただ、もし“普通じゃない”って言われることがあったとしても、それは単に平均から少しずれただけのことだ。だから、周りと違うことに挑戦してみるのは、本当はそんなに怖がらなくてもいいのかもしれない。きっとそういう人が、偉大な世界的な発見をする学者になったりするんだろうな。「馬鹿と天才は紙一重」ていうのはきっとそういうことだろ。
周りからは到底考えられないことを、やってのけるんだから。馬鹿にしか見えないだろうな。まあ馬鹿の9割はただの馬鹿だが。
まあ、自分がやりたいこと、正しいと思うことはきっと間違ってない。最初から周りを意識しすぎもよくない。もちろん普通も大事だが。
ただ、それが正しいかどうか迷ったときに、誰かに相談すればいいんだよ。
もしコンビニでアイスを6本買っても、人間失格じゃない。
せいぜい冷凍庫がちょっとパンパンになるだけだ。